『親ガチャという言葉に怒る人が知らない“貧困家庭の悲惨すぎる現実”とは』

「親ガチャ」という言葉に込められた怒り

「親ガチャ」という言葉がTwitterトレンドに入るほど流行していたとき、興味があってワード検索をかけてみると、ネガティブな反応や嫌悪感を露わにしているつぶやきが非常に多かった。例えば「生んでもらった親に対して敬意がない」「親を『ガチャ』という言葉で否定するなんて、親が聞いたら悲しむ」という風に、親サイドの目線に立って考えている人たちによる意見が目立ったように思える。

 もちろん若者であっても、親が自分を生んで育て上げてくれたことに感謝し、今も良い関係を築けている人であれば「自分の親を『ガチャ失敗』などと例えるなんて」と、「親ガチャ」に対して拒否反応が出てもまったく不思議ではないだろう。

 私個人としては「親ガチャ」という言葉を好んでは使わない。しかしながら、世の中で起こっているさまざまな不平等を解決しようとするとき、なくては語れないのが「生まれ育った環境」についてだ。日本における(相対的な)貧困問題はまさにそのひとつで、自分が生まれた家庭、育った環境、親が持つ経済力や文化的資本、社会的資本、知的資本がそのまま子へと受け継がれ、大きく影響を与える。

 

 そうした背景を踏まえると、新型コロナ感染症による経済的打撃を受けた人たちを含め、多くの人々の注目が「自分の努力でどうにもしようがないこと」へと集まったのが今回の「親ガチャ」という言葉への共感・流行であり、2021年の象徴的なできごとであったと思う。

 

「自己責任論」最盛期から、衰退期へ

 とはいえ世間一般には「自己責任論」は支持されやすく、それが正しいかどうかはさておき、特に貧困問題については未だにメジャーな思想だと言える。

 このコロナ禍においても、生活困窮に陥った人たちの状況を報じるニュースには「普段から貯蓄などの備えをしておかなかったのが悪い」「収入が下がったり一時的になくなったくらいで生活が破綻するような職にしか就いていないのは本人の怠慢だ」というような批判のコメントが必ずと言っていいほど寄せられる。

 

 彼ら彼女らの言い分は大体が「自分はこんな不況の中でも努力して生き抜いてきた、だからそうできないのは努力が足りないせいだ」という生存者バイアスの典型的な例であり、「飢餓がなく義務教育を受けられる日本に生きている以上、与えられた環境は全員同じであるから、国内での不平等は起こりえない」と信じて疑わないのだ。

「自己責任論」を振りかざす人たちは、しばしば「貧困からのしあがった成功者」の話を引き合いに出そうとする。努力さえすれば、貧困家庭出身でも起業して高収入を得ることが可能だというのだ。ソフトバンクグループの孫正義氏やパナソニック創業者の松下幸之助氏、起業家の家入一真氏などがその好例である。確かに彼らはみな貧困家庭で育ったというバックボーンを持ちながらも、努力し、研鑽を重ねて「社会的成功」を得た人たちである。

 

 しかし貧困家庭に生まれた人たちのうち、一体どれくらいの人間が彼らのような成功を収められるだろうか。数十万人に一人いるかいないかの稀有な例を持ち出して、残りの「成功し得なかった」数十万人の存在に目を向けないというのは、あまりにも非現実的な論理ではないだろうか。

 

貧困の悪循環のなかでもがく人々

 人々の関心が「個人の責任」から「個人の努力でどうにもならない生育環境」へとうつることで、何が変わるか。固定化された社会的格差のなかでの自由競争主義に人々が異を唱え、改善を求めようとすれば、まずは格差是正のために政治的なテコ入れが不可欠であることに気が付く。

 貧困から脱して正常な循環プロセスに乗るためには教育、コネクション、金融資本が必要となるが、貧困家庭ではそもそもこれらの資本がない。例えば、親や親戚のなかに大学に通った経験のある人が一人もいない、地元のコミュニティ以外との交流を持たない、教育や仕事に投資する金銭的余裕がないために、貧困の悪循環から抜け出すことが実質不可能である。

 

 

「親ガチャ失敗」の子どもたちは政権を揺るがしうるか

 大学卒業とともに数百万円の借金を背負わなくては中流家庭以上の子どもと同等の教育を受けることができないこと自体がそもそも「教育格差」である。事実、貧困家庭に生まれた多くの子どもは高等教育を受けたくても、金銭的な理由で高校・大学進学をあきらめざるを得ない。

 

 そうした家庭に生まれ育った子どもに対して、よりによって文部科学大臣が「身の丈にあった受験を」と言い放ってしまう始末である。「社会的格差の責任」を子どもにまで押し付け、教育機会の均等を目指してこなかった国家や政治のあり方が正しいとは、到底思えない。

「親ガチャに失敗した」子どもたち、若者たちから世の中への不満が噴出するのは、当然の結果だと思う。子どもたちは親に不満を抱いているというより、生まれた時点で配られているカードでしか戦えない既存の社会構造に対して憤っているのではないか。

 これから先、既存の社会構造を破壊するか、資本を貧困層へ再分配する仕組みを作らないかぎり、どんどん国民の怒りは増幅されていき、政権を揺るがそうとする社会運動が過熱していくのではないか。そうすれば、いずれ政府は国民の声に耳を傾けざるを得ないタイミングがくるはずである。

 権威勾配の上の方にいる人たちが甘い汁を吸い続けるための政治が、いつまで通用するだろうか。